On a small lake under a small wooden bridge in Merry Creek in Melbourne, where for a decade I have taken a walk early in the morning, there was a white goose. It was the only white bird among a group of brown and grey ducks, which shared that particular environment. The white goose had a broken wing, and a single feather stuck out conspicuously.… Continued
Haunted Country 2006
Children have become a tabula rasa onto which the triumphs and failures of society are inscribed. When great projects are undertaken, the ostensible motivation is to make the world better for the next generation; when cracks appear in social systems supposedly established to facilitate better living, it is children who tend to fall through them. When things go terribly wrong for a child, his or her plight stands as a form of reckoning, not just for the individuals directly involved, but somehow for society as a whole.… Continued
An ambivalent spectre hangs over the Australian landscape. It is a beautiful land, famous for its scale and dryness. But there is a special discomfort wherever white people tread. They do not altogether belong. Australia is a vast land, sparsely inhabited and relatively undifferentiated for thousands of hectares at a stretch. Before the European invasion, it must have been a dry but vibrant garden, each corner of which was known and accorded religious meaning by the Indigenous people.… Continued
In the summer of 1977, I stayed with a school friend’s family on their houseboat on Lake Eildon, a popular tourist destination a few hours drive from Melbourne, Australia. While there, I decided to climb the mountain, Mount Enterprise in the National Park. On the day, I set off at 6.00 am. I thought that it would be a quick jaunt up and down the mountain and I would be back in time for breakfast.… Continued
現前の亡霊: ポリクセニ・パパぺトルー”憑かれた領土
かれこれ10年になるが、私はメリークリーク(メルボルン)のせせらぎを毎朝散歩する。数年前のことであるが、吊り橋の下に小さな川溜めの池があって一羽の白いガチョウがいた。茶と鳶色のアヒル達に混じって唯一の白い鳥であった。そのガチョウの翼は折れており一本の羽が常に体から突き出ていた、だから彼女の姿はすぐにそれと見て取れた。初夏には毎年小さいアヒル達が現れ、けなげに気を張りつつも気まぐれに母アヒルの後を追う。羽の折れた例の白いガチョウは孤独にいつもアヒルの群れと一緒にいた。ある日彼女はいなくなった。散歩のたびに気をつけて探してみたが、見つからなかった。アヒルの群れの中の中心が失われたような「空白」が水面の日常に生じた。しかし、一年ほど経ってどこからともなく薄暗い羽のアヒル達に混じって若い白ガチョウが現れた。かの白いガチョウの亡霊が重なって見え、喪失の空白が突然埋まったようであった。
その若いガチョウはかつての白ガチョウがいた将にその位置で同心円の波を立てていた。世代を超えて同じ場所で二羽の白ガチョウを見ることは不思議な気がした。同様の構成とコンポジションの繰り返しがあった。私は世代を超えて二匹の白ガチョウを連想し重ね合わせていた。今はいきいきとし現前の強度を持った記憶と共に。
パパペトルーの 「憑かれた領土」には彼女自身の子供達、オリンピアとソロモン、そして彼らの友人達が、喪失した子供達の新しい世代としてオーストラリアの野生のブッシュを背景にして写し出されている。ブッシュで迷い行方不明になった子供達を演じている彼らのイメージは、ここに現前として明確である。パパペトルーと彼女のチームは4WDを連ね、時に堂々巡りの迷宮に迷いつつ、それらブッシュの地を訪れた。その地は記憶、事件、そして弔いで満ちているけれども、悲劇の兆候は少しもない。オーストラリアの野生のブッシュは無関心で、潜在的な果てしなく広がる背後の空間として在る。オリンピアとソロモン(そして彼らの友達)は行方不明になった子供達を、彼らの祖母が作った古い衣装を着てブッシュの地形を背景として写真に登場する。
19世紀中頃そして20世紀始めの行方不明の白人の子供達の話は当時の家庭を震え上がらせた。その悲しい話は小説、映画そして劇にもなった。この子供達は町からの訪問者であり偶然ブッシュで悲劇に遭遇したものである。あるものは両親の元に帰ってこなかったし、(アボリジニーのブッシュトラッカーによって)発見されたものもいるが、その多くの者たちは死体さえ見つからずに消えてしまった。ロバート・ネルソンが彼の小文で美しく呼び覚ましているこれら行方不明の子供達の心破れる話は、今だにオーストラリアの国民を世代を超えて取り憑いている。
「憑かれた領土」の写真のイメージはどこかフィクションで夢のようでもある。写真の白と暗色のコントラストの力強さは子供達の現前する力を強調している。彼らがそこにいることは失われた子供達のイメージの重なりと冗長であり、悲劇の補完である。素顔の自然はどんな悲劇も失われたものもその兆候を表に出さない。ホワイト・ノイズのように、「空白」の感覚のみが残る。空白は演技する子供達の現前で満たされるものではない。イメージの叙述の側面は見るものを失われた子供達の悲劇に連れ戻す。
白い姿は、岩と薄暗いブッシュの暗色の前で対照をなす。悲しい話にもかかわらず、今過去を演じている当の子供達の身体は健康で生き生きとしている。今この現前は古い喪失の話を圧倒している。イメージは物語性を凌駕する。ある部分これは写真の力、つまり現前の力によるものだ。
パパペトルーの夢のような写真のイメージの質は、この現前の力と客体化にある。現前の力は記憶を貧困化させる。主体としての動作主はイメージを物語と自身の直感を通して読む。しかし客体としての像はそれ自身の存立根拠を持っている。その客体はモデルや風景を構成(コンポジション)として配置する。薄暗い背景に対する白い現れ、そして柔らかい身体と固い岩、清潔な白い服と混沌としたブッシュ、木、火山岩の景観との様々な程度の対照。
パパペトルーの写真のイメージは記憶の物象化である。そのイメージは、多義的意味の解釈を可能にする客体化の過程の端緒となっている。パパペトルーのイメージは際限のない解釈を可能にしている。子供の遊戯、悲劇、幽霊、壊れやすい人間、歴史、そして無垢。それぞれの写真は、人が記憶を客体
化するのに必要なモニュメントの建立の様である。記憶は決して具体化しない、しかし、客体化することに組することはできる。客体はパブリックな(公の)存在である。このもの(客体)はまた、客体のもつ可能な意味を汲み取ろうとする主体に従って、多義的解釈を可能にする。この客体はある意味を帯びるモニュメントとなるが、同時に客体(オブジェクト)、つまり「もの」でもある。ものそのものはそれが帯びるものには一切関与しない。それは独立しており、我々がイメージに持ち込む様々なアプローチに従ってその姿を見せる。人はモニュメントが必要なのはそれが意味を固定化させないからだ。客体化は多義的解釈の可能性に参加する過程を通して起こる。この過程は新たな解釈と連想の開かれである。これが客体つまりものの役割である。
パパペトルーの「呪われた土地」は、ものとしてのモニュメンタルであり且つ幾分儀式としての葬式のようでもあり、これが見るものに夢を想わせる。しかし写真はまた客体的なイメージそのものでもある。これらのイメージは見るものに様々な解釈を可能にするが、これらの写真の背景になった現実の話に基づいて特定の意味を汲み取るよう仕向けもする。同時に、それらは「像客体」でもある。客体のステイタスを持つことによって、イメージは観者に可能な連想と自生的な物語を創り出させる。このイメージの背後に在る歴史的事件と客体そして現前のステイタスを持つことの対照は夢のような反応を生む。
北野武の映画「キッズ・リターン」に美しいシーンがある。それは最後の部分で、二人の主人公達が自転車に二人乗りをして以前通っていた高校の空き地の校庭を円を描いて走るシーンである。その二人の姿は不確かなもので亡霊の様でもある。実際、一人は彼が属していたやくざのグループに処刑されており、もう一人はポクサーの成れの果てで、行方不明になっている。そのシーンは奇跡的である。それは又夢のようで、この映画の全ての意味、若いエネルギー、失敗、運命、帰還はこの一場面に集約されているといってよい。ここに又、失われた傷ついたガチョウは、現前の実際の情景で夢の中のように帰還する。彼らの若いエネルギーは再び未来から逆流する過去の感情を生み出している。パパペトルーの「憑かれた土地」は又この過去を写真のイメージの現前に送り出す。それはこれらの現前する子供達と失われた子供達への際限ない再帰する思いの力強いメッセージである。
登崎 榮一 (PhD)
作家・アーチスト メルボルン大学哲学科フェロー
参照 Robert Nelson, Haunted Country: The Secret History of the Australian Bush, Haunted Country, exh. cat., 2006
このオーストラリアのブッシュに対する描写は、フィリップ・ゴード教授(メルンボルン大学建築学科)が2001年日豪近代芸術研究会(メルボルン大学)で彼の論文発表「オーストラリアのランドスケープ」でのコメントに基づく。
この「客体としての像(イメージ)」の知見はエドモンド・フッサールのイメージについての論議に啓発されたものである。参照 Edmund Husserl, Phantasy, Image, Consciousness, and Memory (1898-1925), trans. John B. Brough, Springer, Dordrecht, 2005. John B. Brough, Some Husserlian Comments on Depiction and Art, American Catholic Philosophical Quartely, vol.